月夜のドライブ

ラブレターバンバン書いて紙飛行機にして 宛てもなく空に飛ばすブログです。▶プロフィールの「このブログについて」をクリックで記事一覧などに飛べます。

ひたすら「SUPER ZOO!」を聞いている

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泣きたいときに涙が出るなんてそんなマンガの主人公みたいなこと、少なくとも私の場合ほとんどない。その涙が何かの手段になってしまいそうな場面なら余計ね。でも、カーネーションの新譜の中、「十字路」のこの詞には無条件に涙が出てしまう。誰の役にも立たない涙が。


十字路の孤独な黒い鳥
くたばるなよおれも同じなんだ

 

この曲を初めて聞いたのは3月のライブ「気楽にやろうぜ その壱」でだったと思う。そのときは確かタイトルを「十字路の孤独な黒い鳥」と紹介していた。それから、8月に出たシングル「スペードのエース」にも入ってる、けどこれは買ったものの封を切っていない。それはカーネーションの、今のところ(そしてたぶん永久に)たった一枚のコピーコントロールCDだから。買ったけどまだ開封していない、人から見ればどうにも中途半端なこれが、結局のところ私のCCCDへの態度だったな。

 

(ここから先、話は「十字路」からはずれまくるよ。)私がCCCDに関して嫌だったのは、その製品の不完全さ以上に、アーティストにまるで踏み絵のような顔をして迫るところだった。音を運ぶ器が何であるかなんて、(もちろん器も良いに越したことはないけれど、)本来音楽そのものの魅力とは関係のない、ものすごく瑣末なことだ。なのにまるで、CCCDを回避するかしないかでアーティストの善悪が決まるとでも言いたげな短絡的な風潮(もちろん一部だけれど)が、ものすごく嫌だった。CCCDを回避するかしないかはレコード会社やスタッフの良識を判断する材料にはなるけれど、アーティストの音とは、ひとつも関係ない。不完全な製品に異を唱える、消費者運動としての反CCCDには共感したけれど、そのことをレコード会社じゃなくアーティストに訴える混同(それももちろん一部だけれど)には違和感があったし、CCCDを買うかどうかは人に指図されるんじゃなくてそのたび自分で判断したかった。音楽って「個」のものでしかあり得ないし。ただ。「買わない」を主張する人も、「買う」と決心する人も、たぶんその前につくのは同じ「音楽が好きだから」という言葉だったんだよね。CCCDにデリケートな発言をするのは、結局のところ音楽を好きで仕方ない人ばかりだったと思う。それが、音楽製品としてのCCCDの致命的な欠陥だった。ともかく、音楽の世界を少なからず混乱させた責任は誰も取らないまま、CCCDはメーカーの戦略的な都合で消えていった。

 

言うまでもなくCCCDのことでいちばん苦しんだのは、消費者にもなれずレコード会社にもなれない、音楽を生み出すアーティストだ。中でもカーネーションは、最も苦しんだアーティストのひとりだったと思う。シングルリリースに合わせて「ANGELツアー」と銘打っていたそのシングルを、ツアーより先に発売日を延ばしてまで上に掛けあってCD-EXTRAにして出した。ギリギリまでがんばったあげく「スペードのエース」がCCCD化を余儀なくされると、コンビニでのダウンロードサービスやアナログ盤の発売まで用意した。常識的な大人なら突っ張らずに適当にやり過ごすこともできる場面で、ストレートにぶつかって傷だらけになって、それでも腐りもせず文句を言うでもなく、ただひたすら、自分たちの音だけを出し続けていた。そんな真摯なアーティストがどこにいるだろう。バカみたいに誠実すぎるよ。泣けてくるぐらい。

 

そんなことをずっと感じてたから、「くたばるなよおれも同じなんだ」という叫びに、声を枯らし喉から血を流して歌ってる直枝さんの姿が重なって、涙が出ちゃって仕方がない。カーネーションみたいなバンドに、私はどんなファンであれば報いることができるんだろう。

 

いつだったか、ステージの上から直枝さんが放った「オレらは大丈夫だから!」という言葉を「CCCDにはしないから」っていう意味に解釈した人もいたみたいだけれど、私は、そのときもっともっと大きなものをその言葉から受け取った。『CCCDになろうが何だろうが、オレらの音楽はそこに閉じこめられたりしないから!』って。『カーネーションの音は、すべての瑣末なことから自由だから!』という宣言だって。もう何でもいいから、ほんと歌い続けて、音を出し続けていて、カーネーション!次のシングルは直径1メートルの石に刻んで出しますと言われたら、新宿HMVで買って甲州街道を転がして帰るから、私。

 

*「SUPER ZOO!」ジャケは前記事で載せたので裏ジャケにしてみました