月夜のドライブ

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カムカムミニキーナ『燦燦七銃士~幕末エクスプレス1867~』 @ ザ・スズナリ

カムカムミニキーナ『燦燦七銃士~幕末エクスプレス1867~』。主宰の松村武さんや劇団が私たちに向けて発信してきたものの物量が(たぶんいつにもまして)尋常ではなく、受け取った私の側も感想書こうにもまったく文章が追いつかないのだけれど、なんとか、残せる限りのことを。(全力で打ち返す感想文なので、公演のだいぶ手前から始まる、しかもやや私的なドキュメント含みの長文です。笑)

 

■公演前

コロナ禍の中、カムカムの今年2度目の公演がザ・スズナリで行われる予定だということは、7月の『猿女のリレー』時に配布されたチラシで知った。そのときの私の正直な第一印象は、「えっスズナリ…できるのかな…?」だった。なぜなら、単純に、スズナリ、狭いから。7月に『猿女のリレー』が、自粛後の演劇界のほぼ先陣を切るといっていい形で上演されたときに比べれば、さまざまな公演が劇場に戻ってきていたとはいえ、リーディングや一人芝居ではないカムカムの通常公演を、スズナリのような狭い空間でお客を入れた状態でできるのだろうかというのはそのときの私にとっては未知で想像のつかないことだった。ただ、7月の公演時にこの劇団の非常に理知的で筋道の通った感染対策(公演中の会場での対策はもちろん、そこに至るまでの稽古中などにおいても)を体験していたので、きっと安心して足を運べるようにしてくれるに違いないという信頼感はあったけれど。(そして、実際にそうなった。)

 

この公演が上演に漕ぎつけるまでのあいだには、もうひとつ大きな出来事があった。チケット発売を5日後に控えた10/12に、集団PCR検査の結果、出演者に陽性者が出たという劇団からの発表があったのだ。それが(今回主役といってもいい)客演の内藤大希さんだということも。このニュースを劇団のツイートで知ったときに受けた衝撃、忘れられない。その発表には、保健所と適切にやりとりしながら内藤さんの復帰を待って作品は完成させ開幕を目指す旨も書いてあったのだけれど、そのときの私には「陽性者が出た=公演は難しい」という短絡的なイメージしかなく(実際そういう公演もちらほら見聞きしていたし)、7月の公演は何とかやり遂げたカムカムもさすがに今回は難しいか…と、胸に鉛を詰められたような重い気持ちになってしまったのだ。

 

ところが、その日の松村さんのツイートがこれ。

まあこういうことも今は起こる。今のところ「燦燦七銃士」は予定通りのスケジュールで全員揃って開幕予定です。この壁を乗り越えて、逆にいい舞台にしますので。(2020年10月12日 午後8:45)

 

そうなのか!この事態も松村さんの中では想定内なのか。この致命的とも思える中断さえ想定に含めたロードマップを松村さんと劇団は描いて準備を進めているのか。なんという冷静で力強い態度。また劇団員たちも大騒ぎすることなくただ淡々と、すべきことを開幕までに進めていくという姿勢でいるのが外からも見てとれた。とはいえ、実際どうなるのか心配なまま過ごしていたら、10/15に稽古再開の報、10/17にチケット発売、そしてあれよという間に10/31の初日!このコロナ禍の中、陽性者が出ても、きちんとした段階を踏んで公演を迎えることは可能だと自ら示したカムカムミニキーナ。私が先入観だけで「開催は無理なのでは」と思ったことは、7月に引き続き今回も覆された。なんと頼もしい集団。

 

というわけで(ここに行き着くまで字数がかかったけど!)迎えた『燦燦七銃士』東京公演。私がチケットをとっていたのは、公演2日目の11/1(日)昼と東京千穐楽の11/9(月)昼の2回だったけれど、中頃でどうしても行きたくなって11/7(土)昼も当日券で観てしまった。都合3回の観劇。

 

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カムカムミニキーナvol.70
劇団旗揚げ三十周年記念公演 第二弾
『燦燦七銃士~幕末エクスプレス1867~』

作・演出:松村武

出演:
内藤大希 清水宏 池田有希子 今奈良孝行 谷知恵
八嶋智人 亀岡孝洋 長谷部洋子 田原靖子 未来 渡邊礼 元尾裕介 福久聡吾 柳瀬芽美
梶野春菜 スガ・オロペサ・チヅル 松村武

公演日程:
2020年10月31日(土)~11月9日(月) / ザ・スズナリ
2020年11月14日(土)~11月15日(日) / 近鉄アート館
2020年11月18日(水) / まつもと市民芸術館小ホール
パンフレット付き指定席:6,500円(税込)
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■ダルタニャンと三銃士と「伝える」こと

今回、アルコール消毒、検温、除菌マット、チケットのもぎりなし、少なめに抑えた席数、客席とステージの距離、演者とお客さんの動線の分離、換気タイム、会場での物販なし、来場者カードの提出、といったさまざまな感染対策に加えて、1列目に座るお客さんに使い捨てのフェイスシールドの配布まであった。私は最初に観た回でこの1列目だったのだけど、もちろんステージから客席までの距離は十分にとられていたし客席側も皆マスクをしているからそれだけでも心配はなさそう。でも日本3大飛沫俳優(笑)の一人に数えられる清水宏さんをはじめとした役者さんたちが、1列目のお客がフェイスシールドを装着していることでより安心してのびのびと演技できるならお安い御用!がしかし、困ったのは、観劇の後半、自分でもひくほどどばーーーと涙があふれてきたのを、フェイスシールドしているとほぼ拭えないことだった(笑)。

 

古代をモチーフにすることの多いカムカムミニキーナのお芝居だけれど、今回は「幕末×三銃士」の世界で、松村さん自身も言っていたけれどいつものカムカムよりもお話がわかりやすいうえ、仕立てはまさに波瀾万丈の“冒険活劇”!幕末の風雲急の空気の中、チャンバラあり、スパイの暗躍あり、若者の成長譚ありのド派手な筋書きにハラハラドキドキ、印象はさながら映画館に長い行列のできる大人気時代劇のよう!劇中劇でダルタニャン、アトス、ポルトス、アラミスに扮した内藤さん、清水さん、今奈良さん、八嶋さんが並んで見栄を切るシーンは、もうキャーッと叫んで失神しそうなカッコよさ!

 

ところが後半に突入すると、もう涙がとめどなくあふれて止まらず…。それは、舞台の上で展開されている別世界のお話に思わず感情移入する…というようなのどかな事態ではもはやなく、荒唐無稽なはずの架空の物語がいつのまにかカムカムミニキーナという進行形の劇団の現実に、そして私の現実に、メリメリとめり込んでくるという、とんでもない体験だった…。

 

幕末の時代に、デュマの「三銃士」を和製のお芝居にしてパリ万博で上演する!という目標に向かい、昼行燈というあだ名のやや頼りない若者・樽谷弥太郎(内藤)を中心に、にわかの座組を組むことになる面々。幕府の役人、フランス人神父、無頼の浪人、人気役者、と立場も職業も違う4人が、ダルタニャンと三銃士の間柄さながらに、ひとつの目標のために親交を結ぶようになる。しかし激化する尊王攘夷の動乱の中で、一人また一人と散り散りばらばらになりパリ万博への出展自体が立ち消えの危機に。

 

ひとり残され、もうダメだ、と意気消沈する弥太郎に小栗(松村)が、お前一人でもパリへ行ってこい、そこで伝えるべき相手に向かって芝居してこい、と言ってから先は、観る私はひたすらボロ泣き。弥太郎は戸惑いながらも港へ向かうが、そこで再会したカション先生は、ひとりで三銃士なんかできるわけないと泣きつく弥太郎にこう言う。「役者のからだは風通しのいい器だ、さまざまな思いを受けとめる器になってお客さんに伝えればいい」と。もうもう、ひたすらボロ泣き。舞台の上の、風通しのいい器である覚悟を決めた役者たちの先には、お客である現実の「私が」いる。ダルタニャンであり弥太郎であり生身の役者である内藤大希さんの先に、生身の私がいる。アトスでありカションであり生身の役者である清水宏さんの先に、生身の私がいる。「伝えること」が叶わなくなりそうな状況の中なんとか自分たちの芝居をパリに持っていこうと奮闘する幕末の志士たち、というお芝居のこちら側に、コロナ禍に苦しみながらなんとか自分たちの芝居をお客に届けようと傷だらけで闘う生身の役者たちがいる。『燦燦七銃士』という物語は、架空と現実の境目をドドドドとすごい勢いで乗り越えて私の中にめり込んできた。

 

さらに、それぞれに背負った物語が再びひとつ所に収斂するように、アトスこと跡澄源藏、ポルトスこと堀戸周防、アラミスこと村田荒水が箱根の峠でひとつになり、ラ・ロシェル包囲戦のごとくにお梶たちと砦を構えて籠城するシーンが、また泣けて泣けて仕方なかった。ぶどう酒を酌み交わし笑い合いながら敵の目を自分たちに引きつけて時間稼ぎをする、その目的はひとえに「谷やんをパリのしかるべきお客さんの前に渡らせるため」なのだから。それは、50歳を過ぎたおじさん三銃士の清水さんと今奈良さんと八嶋さんが、彼ららしい明るい高笑いをしつつ精一杯に体を張って、若き役者の内藤大希さんに「しかるべきお客さんの前で思いを伝えよ」と、彼らの思いを託す場面にも見えた。人から人へと「伝える」こと。世代から世代へと「伝える」こと。コロナ禍で人と人とのつながりが断ち切られそうになっても、冷笑に蝕まれた心が「伝えること」を憎んでも、なんとしてでも、どんな壮絶な闘いをしてでも。

 

その、跡澄ら三銃士や小栗の思いを背中にしょいつつも、芝居を通して「人に伝えること」に自信など持てないでいたどうにも頼りない“昼行灯”の樽谷弥太郎が、単身パリの地を踏み、ベルサイユ宮殿での壮麗な舞踏会に目を白黒させて、それでも最後の最後に心の奥底のわずかな意地を奮い立たせて覚悟を決めて、歌い出す!その瞬間の、大輪の花が開くかのような輝き!なんと力強い歌声、あの昼行燈の谷やんが!と、全身に鳥肌が立つ。そしてそれに加えて観る側の私は、PCR検査でまさかの陽性が出て稽古を休まねばならず、公演自体が実施できるかどうかも含め一度は不安のどん底に落ちただろう内藤さんとこの座組のみんなが、力の限りを尽くしてここまで、この芝居の完成まで、持ってこれた!という、お芝居の外側で同時進行していた現実のドラマにも心打たれてしまって、もう、涙を止める術なんてあるはずもなかった。内藤さんの自信に満ちあふれたすばらしい歌声、池田有希子さんの晴れやかで力強い歌声、その歌で絵巻を繰るように振り返られるスペクタクル、加わってくるキャストの輝かしい声と表情、威風堂々の陣形、演劇の喜びに満ち満ちたきらびやかなまでの多幸感!絶対に忘れられない、“燦燦として賑賑しい”クライマックスシーン。なんというすごいお芝居を、体験してしまったんだろう…。

 

■おでゅまとお梶

そしてもうひとつ言及したい、今回私が大いに揺さぶられた存在が、田原靖子さん演じるおでゅま。『燦燦七銃士』はおでゅまの登場と共に始まっておでゅまの語りで進んでいき、台詞部分の3割ぐらいはおでゅまがしゃべってるんじゃないかと思うぐらいなのだけれど、田原さんが操る東北なまり混じりの函館弁(なのかな?)が達者かつじつに魅力的で、観客はあっというまに物語に引き込まれ、そのままぐいぐいと心地よく引っ張られていく。なんてことなくやってのけているけれど、田原さんのこの語りの力量はいつもながら本当にすごい(なまりがあまりに見事なので北の方のご出身だっけと調べたらふつうに島根で驚いた)。地味で引っ込み思案という役どころで劇中も特別目立つシーンがあるわけでもないのだけれど、実は『燦燦七銃士』は、幕末志士たちの物語であると同時におでゅまという女性の物語でもあるのではないのかな、と。本を読み文章を書くことだけが小さな喜びだった片田舎の文学少女が、カション先生という異文化からやってきた教育者に背中を押され、夢と才能を大きくひらいていく様は、同じように田舎町で文学全集におさめられた「三銃士」や「巌窟王」にワクワクしていた内気な少女だった私には、たまらなくぐっとくるものがあった。きっと幕末の世に、いや今も世界中に、こういう女性はたくさんいて、『燦燦七銃士』は彼女たちへの応援歌のようにも思えた。

 

一方で、おでゅまとは正反対の派手な見た目と性格の、池田有希子さん演じる姉のメリンスお梶も、奔放なようでいてじつは、辛抱強く妹のおでゅまを守ることに心を砕いてきた人なのだろうと思える後半の描写が胸に迫った。おでゅまが出処不明の凶弾に倒れて命を落とした後、仇をとる、と決めた瞬間にハイカラな江戸っ子なまりから函館なまりに戻ったお梶の姿には涙が止まらなかった…(まあそれまでもすでに泣きっぱなしなんだけど)。松村さんのお芝居は、いろんなかたちの強い女性が出てくるのがとてもいい、すごくいい。(ちなみに毎回登場するはりぼて人形のゴローちゃんが、今回、お梶に手を引かれる幼少のおでゅま役として登場したのも愛らしい泣き笑いポイントだった。笑)

 

■カムカムの演劇

それにしても、松村武さんが「手数演劇」と称する、キャスト総出のめくるめくカムカム舞台は、この狭いスズナリで削ぎ落とされるどころか濃く煮詰められギュッと凝縮され、ますます壮絶さを増していたなあ(花組芝居の植本純米さんは観劇後のツイートで「人力魔法」と)!何枚もの戸板を、ベテランも客演さんも問わず全員が入れ代わり立ち代わり裏方となって縦横無尽に取り扱うことで、江戸の町並みや船着き場やうら寂しい山道を、奥行きも距離感も伴いながら狭いスズナリに現出させる手法はまさにイリュージョンのようだった。動きも台詞も大道具も小道具も衣裳も膨大なカムカムミニキーナの演劇は、世間一般になんとなくある“表現を削ぎ落してシンプルにしていくことが高尚である”というような不思議な思い込みを、その圧倒的な物量でぺしゃんこに踏みしだいていく(笑)。例えば村田新十郎が楽屋で鏡台に向かうときに八嶋さんの鏡像として向こう側に現れる亀岡さん(めちゃめちゃ可笑しい)の浴衣姿や、劇中劇で荒水が落とした女もののハンカチをはやし立てる女三人衆の黒留袖、あるいは船出する谷やんにカションが発破をかけるシーンの小さな人形たち。それぞれほんの十数秒のシーンのための衣裳や小道具なのだと思うけれど、そこまでやる?と問われたら、カムカムアンサーは「そこまでやる」の一択なのだと思う。その、細部にまで過剰なほど物語が宿る無秩序で雑然としたありようが「世界」そのものなんだと思うと、私の心は沸き立つ。いくらでも好き勝手な物語をどこからでも受け手が読みとることのできる自由。松村さんが(たしか配信で)夜空を眺めて人が勝手に星同士をつなげて星座を見出す、その星座を自分でつなげる行為がカムカムの演劇なんだという意味のことを(うろおぼえですが)言っていた、そういうことなのだと思う。そしてそれこそが松村さんが今必要だと感じている「物語」の力、なのかもしれない。ともすれば誰かが操るひとつのシンプルでわかりやすいストーリーに集約していきがちな“空気”に対抗するための、私たちが手にできる武器。物語の力。(これについては追々継続的に考えていく。)

 

とても書ききれないけれど、17人の役者さん、すみずみまでほんとうにすばらしかった。カムカムの客演さんはいつも抜群にイイから楽しみなのだけれど、その元々高い期待値さえはるかに超えてきた役者さんたち。「風通しのいい器」いっぱいに希望と輝きをはらんでみせた内藤大希さん、強さと心優しさとまっすぐな熱さで全方位にスカッとする活劇感をもたらしていた今奈良孝行さん、気づくと「いいセリフは全部清水さん」状態で(笑)異国人のカタコトイントネーションかつ高速セリフ回しでも説得力持たせられるのさすがとしみじみ思わされた清水宏さん、きれいで華やかで妖しくてカッコよくてとにかく最高だった池田有希子さん、『猿女』に引き続き凛とした強さが稀有な魅力と思えた谷知恵さん。誰一人欠けても成り立たないと思える、すばらしい客演さんたちだった。今回コロナ対策のためにアンサンブルの人数を増やせなかったそうで、劇団員も表から裏まで少人数総力戦にならざるを得ない中、人気役者役で持てる引き出しを惜しみなく見せて唸らせてくれた八嶋さん、年齢も性別もさまざまな複数の人物をたちどころに演じ分けるという難技をさらっとこなしていた長谷部洋子さん、ほんわか感に隠した豪腕で物語をぐいぐい推進した田原さん、「何しろお紺は私にぞっこんでして」の一言が絶妙に面白いのすごかった亀岡さん、いつもと違うはっちゃけた役柄がとてもよかった未来さん、同じく近衛中将役の振り切れぶりにビックリした礼さん、安定のブレない元尾感に感心する元尾さん、換気タイムのデュマからそにへと大事な役どころをしっかり演じてた(でもまだまだ伸びしろあるとも思えるのでがんばれ期待の)芽美さん、いつも大事なところにかじはるがいる感じの梶野春菜さん、存在感ありありの馬を演じたスガさん、今回たぶんもっとも裏方に徹していながら「(複雑な動線の中で万一替わりたくても)そうごのポジションは誰もできない」と松村さんに言われていた聡吾さん、ほんの数日前の配信で自分の役の稽古が全然できてなくて「やばいな」と言ってたのにきちんと仕上げてきて長台詞を朗朗とかましていた松村さん。あの狭い舞台で大河ドラマ級の骨太のスペクタクルを展開しつつ、あちこちでセットや小道具のマジックやイリュージョンを同時多発させるような「全員演劇」を成り立たせるメンバー。時間にも空間にも、常識的にそんなに入らないだろうと思われる物量をぶち込んで、結果、時間や空間のほうをぐいっと広げてしまう荒業、これこそカムカムミニキーナの「エクスプレス」!ほんとにすばらしいし大好き…!

 

■受け取る

普段から「舞台裏」を舞台上にあらわにする演出なんかをしていて、芝居の手の内を見せることに躊躇のない、むしろそのことによって虚と実の境目を壊していく松村演劇だけれど、コロナ禍の中での公演となった前回から今回は、もっともっと意識的に「演劇は観客と一緒に作っていくものだ」と松村さんは始終言っていた。だから、『燦燦七銃士』ができあがるまでの過程をYouTubeの配信番組で逐一「赤裸々に」シェアしてくれたりもしていた。たぶん今回の松村さんと劇団のその思いは『猿女のリレー』のとき以上に私の中にも勢いよく流れ込んできて、だからこそPCR検査の結果で稽古が止まったときは一緒に心配もしたし、無事初日が迎えられたときは心から嬉しくホッとできた(ただのいちファンなんだけど)。こんなにも何かを伝えようとしてくれる演者がいるということを感じて、私たちお客さんは信頼されているなと思ったし、愛されているなとも思った。表現のバトンは送り手の送りっぱなしで終わるのでなく、受け手の私たちに受け取る気がないと伝わらないのだということも、以前にもましてリアルに実感する。

 

演劇は、お芝居は、あるいは表現は、私たち人間に圧倒的に必要なものだ。古今東西どんな社会でも、人に神事や祭りが絶対に必要なように。コロナ禍の中で、演劇なんて(表現活動なんて)遊びなんだから後回しだ、不要不急のお楽しみだと攻撃される局面もあったりしたけれど、一方では、それらがないと人は餓死こそせずとも心を病んでしまうんだということも、コロナ禍の中で実感をもって共有されつつあるんじゃないかと思う。

 

役者は風通しのいい器で、いろいろな魂を出し入れして、はらんだ思いをしかるべき誰かに届ける。「思い」や「理想」や「愛」や「夢」といった形のないものは、器がないと人から人に渡すことができない。過去から未来へ運ぶこともできない。だからこそ役者たちは器になる、とそこで覚悟を決めてくれている。受け手の私は、きちんと受け取る覚悟ができているだろうか。送り手と一緒になって、物語の力を信じることができるだろうか。『燦燦七銃士』を通してそのことをずっと考えているし、これからも考え続けると思う。

 

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とりとめもなく書いたらやっぱり長くなったけど(あまりに長いのでさすがに小見出しつけた 笑)、『燦燦七銃士~幕末エクスプレス1867~』から受け取ったありとあらゆることを全力でできる限り書き留めたつもり。でもこれでも全部じゃなくて、書きこぼしがたくさんあることもすでに自覚しているので、機会があったらまた書きます。取り急ぎ、この記事はこれで。

 

カムカムミニキーナのみなさん、客演のみなさん、スタッフのみなさん、コロナ禍の中、困難をおしてすばらしい公演を届けてくださってほんとうにありがとうございました!!!!

 

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