月夜のドライブ

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逆算しないクリエイティブ―「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を観て その4

最終上映告知.jpg

 

9か月上映の続いた『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』が、とうとう終映を迎えた。そのことはまたあらためてまとめて書くかもしれないけれど、このエントリーはそれとは別に、少し前に途中まで書きかけていた記事。そのままにしておくのも何なので、中途半端な感じではあるけれどアップしとこうかなと思います。

 

5月に、“効率に抗う物語―「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を観て その3”という記事をアップしたときにその一部として書いていた文章なのだけど、長くなりすぎるのでそのときは割愛したもの。先日無限列車編を観ながら、『セルルックのキャラと細密な背景をなじませる技術って実はすごいものがあるんだろうなー』と考えていて、技術面もそうだし、やはりufotableのクリエイティブがあくまでも吾峠呼世晴先生の描くキャラのよさを基本としてアニメ化し、その独特のタッチを削ぐことなく世界観全体を構築する、その姿勢にブレがないのだろうな…と思ったのだ。それで、先日書きかけて止まっていたこの文章のことを思い出した。「効率に抗う物語」の続き。

 

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(煉獄さんの存在が「効率に抗う物語」であると書いたのだけれど、)さらに言うなら、物語の中の人物である煉獄さんの生き方だけでなく、現実世界の『鬼滅の刃』という作品そのものが、効率に抗う存在だと思える部分がある。例えばほんの一例だけれど、炭治郎や善逸など登場人物たちの着物の柄。あの何気ない柄が、アニメーションの作画上はとても「カロリーの高い」作業なのだと聞く。原作での炭治郎の羽織の市松模様は「正面は左右対称」だが「背中は非対称」である、それを違和感なく表現するためにうまく作画のウソをついている…とか、善逸の羽織の三角模様が実は一番大変でひとつひとつに番号を振って齟齬がないよう管理しながら作画している…とかいう話を聞いて、一時期羽織にばかり注目して映画を観ていたこともあった(笑)。

 

今、映画や音楽やドラマなどある程度大規模な商業ベースにのる作品は、マーケティングの着地点から逆算して作られる部分が少なくないと思う。メディアとのあらゆるタイアップや露出計画、タレントの起用や番宣のタイミング、関連商品の販売スケジュールなどが全部最初から「効率的に」組み込まれているのが当たり前だ。商業的に最大限の効果を得るために。

 

それが悪いことだというのでもないし、『鬼滅の刃』にそうしたマーケティングがないと言いたいわけでもない。というか十分周到に考えられているとは思う。けれど、「効率」を第一に考えてそこから逆算して作られる作品なら、まず主人公たちに作画しにくいあんな服は着せないんじゃないだろうかと思う(少なくともアニメ化のときに簡略化するのではないか)。あの作画の過剰なクオリティを見ても、制作陣は、『鬼滅の刃』という作品の魂を殺さないために、いったん「効率」は捨てるという選択をしていると思う。そして、結果的にだけれど、効率を優先しなかったことこそが、最大の果実に結びついたのじゃないのかなと思うのだ。逆算されない作品の意外さ、効率を優先しない創作の新鮮さ、遠回りの道を経てこそ到達し得た核心が、思った以上に人々の心を掴んだのではないかって。

 

たぶん作者や制作陣自身が驚きをもって受けとめているであろう、『鬼滅の刃』の漫画の売上や映画の興行収入は、あらゆるムダを排除して効率を求めがちな世界で立ちすくむ個人やクリエイティビティの、勇気を後押しするのではないかなと感じている。

 

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書きかけていた文章は上記まで。

 

3DCGと作画とを複雑に丹念に組み合わせて最高の画と動きに仕上げていくアニメーション、実際にロケハンをした体験から丁寧に描き出される信じられないクオリティの背景。キャスト達自身に「ここまで動かす?」と言われるほどの細かで丁寧な作画。イベントなどで時折見せてくれるカット袋の厚さは、たった数秒のシーンに何百枚という気の遠くなるような枚数の原画が費やされていることを教えてくれるし、「無限列車編」ではキャストの声を録ってからそれに合わせて作画をし直した部分も(特にラストシーン)多いと聞く。スタッフインタビューなどから窺い知る、制作陣の「そこまでやる?」の例は枚挙にいとまがない。

 

 

それに関連して、ハッと思ったことが最近またひとつあったのでここに差し込んでおく。「無限列車編」が終映を迎えるにあたって、新たにそれを記念するグッズがいくつか販売されているのだけれど、その中に「煉獄家の風鈴」というものがある。

物語の終盤、煉獄杏寿郎の回想にて登場した煉獄家の風鈴。

劇中で流れた風鈴の涼やかな音は、「江戸風鈴」を用いて実際に収録しました。

今回、収録に用いた風鈴と全く同じ製法で、さらに、劇中のデザインをそのままに絵付けした風鈴を皆様のもとへお届けできることとなりました。

https://www.ufotable.co.jp/kimetsu/moviegoods/rengoku_furin/

煉獄家の風鈴 紹介.jpg

 

これが、ひとつ7千円と決して安くはないものなのに、現時点で第4次受注までいくほど売れているのだそう。「無限列車編」の制作をしている時点ではもちろん、SEに使用したこの風鈴を販売する計画などまったくなかったと思う。このシーンに風鈴の音を入れるにあたって、実物を使わずにすでにある「風鈴A-1、A-2…」というようなSE集から選んでもよかったはずだし、実際に鳴らして録るにしてもその辺の名のない風鈴でも用は足りたはず。でも制作陣は、大正4年創業の老舗の「江戸風鈴」を選んで、わざわざ鳴らして収録した。それがたぶん、このシーンに最もふさわしい風鈴の音だと確信したから。結果的にずっとあとになって、クリエイティブへの寄与にとどまらず、表に出ることを意図していなかった品質や由緒やデザイン性のストーリーが人を魅了し、この風鈴自体が商業的な果実ともなる。このあたりが本当に、この作品らしいなあとあらためて思ってしまったのだ。

 

ことビジネスとなると、いやもしかしたら純粋な学問や遊びの場であってまで、「ムダというムダは極力排除しなくては!」の呪いに抗いがたい今という時代だけれど、『鬼滅の刃』という作品を巡っては、効率の悪いこと、無駄なことを、いったんワクワクと想像してやってみることのパワーを、あらゆるフェイズで感じる。そして、そのことに、とても勇気づけられる。キャラクターデザインも、演出も、作画も、美術も、CGも、撮影も、音響も、音楽も、「このあたりでまとめておこう」「効率を考えるならこの辺かな」という着地点ではなく、「どうする?どうなる?どこまでいける?」というプリミティヴな高揚のままにひたすら探求心と創作意欲を爆発させていく。

 

そんな“ムダ”の先に、こんな大ヒット作品が生まれ得たことが、縮こまった私たちの背中をグン!と押してくれる。視界がパーッと広くなる。物語を超えたリアルな場でも、『鬼滅の刃』という作品が今の世界にくれた力は、小さくはないんじゃないかなとうれしくなる。