月夜のドライブ

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絶望のその先へ…「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を観て その2

また少し、映画「『鬼滅の刃』無限列車編」のことを書き留めておこうかなーと思う。

 

前回ここに「無限列車編」の記事を書いたのが1月中旬で、そのとき「計7回映画館で観た」状態だったのだけれど、それから1か月あまりのあいだにさらに映画館に通い、マンガも書店を何度も巡って全巻購入、ファンブック2冊と画集も買って、グッズにも控えめに手を出し、アニメも子どもと一緒にだいぶ見進めた。もしかしたらこれは十分ハマッた状態なのかもしれない…。一気に楽しみ尽くしてしまうのがもったいないので、今はまだ漫画は読まずにお預けにしてあるけれど。

 

映画はできれば映画館の暗闇の中で没頭したい性分(家には乏しい視聴環境しかないし)なので、「無限列車編」も映画館でかかっている限り、できれば足を運んで大きなスクリーンで観たいなと思っているのだけど、何度観ても、飽きるどころかますます魅力に引きずり込まれている。

 

なんというワクワクするオープニング、と毎回思う。美しい緑と光とお館様の静かな呟きのシーンから、画面が暗転するとともにそっと音楽がすべり出し、「Aniplex, SHUEISHA & ufotable present」のクレジットが現れ、汽車のヘッドライトがバンと点く。3人の少年が登場して、互いを呼び合う中で名前が明かされ、粗野だったり臆病だったり親切だったりというそれぞれの性格が短いシーンで次々描かれ、扉を開けるなり「うまい!」という謎の大声と出会い、疾走する汽車を間近で捉えたカメラはぐーっと引きながら列車の後ろに回り込み、最後には線路を抱く森の全景を捉え、地平線の上に浮かぶ月までもをフレームに収めたところで、『鬼滅の刃』のロゴがどーーーん。必要な説明を簡潔にすべて入れつつ、物語への期待感を極限まで高める導入部。映画が映画であることの素晴らしさを誇るような、本当に見事なオープニングだと思う。

 

よく言われるけれど、「無限列車編」がアニメシリーズの1期のラストからつながりまだその先にも話の続く、「物語の中間の一部」を切り取った映画であることも、この一編の完成度から思うと奇跡的なことだ。映画に詳しくないのでこういうパターンの映画がどれぐらいあるのかわからないけれど(例えばスター・ウォーズとかそう?)前後のストーリーを知らない私のような観客にも100%楽しめる一編の映画として成立していて、しかも舞台、ストーリーの起伏、登場人物、どれも破格に魅力的。とりわけ無限列車の発車とともに話の幕が切って落とされ、疾走する列車上が舞台となる仕掛けは、他にも枚挙にいとまがない最高の映画イディオムと思える。この部分を映画にしようと考えたのがプロの勘なのか周到な戦略なのかわからないけれど、見事だなあと唸ってしまう。

 

最近は私もさすがに、最初の頃観ていたときほどは泣かずに観られるようになってきた。けれど、毎回、煉獄さんと猗窩座の闘いはもしかしたら煉獄さんが勝つのではないかと思えるし、毎回、煉獄さんが死を迎えるラストに大きなショックを受けてしまう。煉獄さんを失ってしまったことを信じたくなくて、炭治郎のように「煉獄さん…!煉獄さん…!」と心の中で連呼してしまう。煉獄さん、私たちを残してどっかいっちゃわないで…!

 

それにしても炭治郎は「無限列車編」の中で、失いに失い、絶望に絶望を重ねるものだな…と思う。アニメ1期を観てから無限列車編を観ると、魘夢が炭治郎に見せた血鬼術の「夢」が、どれほど残酷なものであるかとより切実に感じる。夢の中で炭治郎が『でも、もう俺は失った』と夢を振り切って駆け出す姿に涙が止まらなくなるけれど、一度失った温かく優しいものを、「再び」失わせるという魘夢の残酷さはすさまじい。と同時に、夢の中でも自分の本来の務めを忘れきれず「幸せな夢や都合のいい夢を見ていたい」欲求から脱することを遂げた炭治郎の力もまた尋常ではない。まだ少年であることを考えると痛ましいほどだ。そして、そんな壮絶な思いで夢を振り切ってようやく魘夢の首を斬ったのに、死んでいなかった、という絶望をすぐに味わわなければならない。ここまでしても死なないのか、まだ戦わなきゃいけないのか、と。

 

そんな魘夢との闘いをにやっと決着をつけて、満身創痍ながらも煉獄さんやみんなの無事を知り、ほっとした気持ちになれた炭治郎。しかしそこに、猗窩座が現れる。その、これ以上ないほどの絶望感。「どうして今ここに!?」と、炭治郎でなくても思うし、(原作も知らずに)初めてこの場面を観たときの混乱ったらなかった。どうして今ここに!?何度映画館に通っても、この場面で立ち直れないぐらい打ちひしがれる。(ここの劇伴もまた、絶望を最大限に増幅させる…。)

 

そして最終的に炭治郎は、煉獄さんを目の前で失ってしまう。初めて会話を交わして心を通わせて全面的に信頼を預けて一緒に闘って、これからこの人にどんどん学ぼう、その背中を追い続けよう、と思った人を、そう思って数時間で奪われてしまう。あんなにも強く、たくましく、頼れる人物が、目の前であっけなく死んでしまう。自分には助けられなかった、という無念さ不甲斐なさを突き付けられる。なんという絶望…。

 

煉獄さんは、死の縁で炭治郎たちに「もっともっと成長しろ」と笑顔で伝えて未来を託すけれど、こんなにも絶望を重ねないと成長は得られないのかという、その圧倒的な絶望の重さが描かれているからこそ、天秤の反対側にある成長も希望もこれほどまでに尊いのかと思う。

 

あんなに強いんだから死ぬはずがない、生きていてほしいと思う炭治郎(と観客)の願いは残酷に裏切られる。でも、その残酷さに立てなくなりそうになりながら、それでも希望を灯して前を向けと背中を押してくれるのは、炭治郎が猗窩座にぶつけた「煉獄さんは負けてない!」という言葉であり、それを聞いて魂を救われたのだと思える煉獄さんの表情だ。そして、煉獄さん自身が残した「死ぬからこそ人間はいとおしく尊い」という言葉であり、また、伊之助が泣きながら言う「死んだ生き物は死に絶えるだけなんだ、メソメソしても戻って来やしないんだ」という獣の論理だ。現実の残酷さに耐えに耐えて天秤の反対側の光にまで観客を連れていく、物語の強靭さ、画の力、そこに命を吹き込む作画、演出、声の演技に、深く深くありがとう、と言うしかない…。

 

ふう。それにしても、一度あのラストを経験すると、ますます、オープニングの調子はずれな煉獄さんが尊いな…。あの「うまい!」を、炭治郎とのかみ合わない会話を、何度でも聞きたくなる。そして映画が始まると、この頼もしい煉獄さんが負けるなんてことあるはずがないと確信する。何度でも。

 

 

書きたいことがまだ書ききれていないけれど…、残りはまたあらためて。

 

鬼滅210219.jpg

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メモ。「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」は、2/21までの公開19週目(129日間)の時点で、累計の動員が2745万3040人、興行収入が377億5814万9600円、とのこと。