月夜のドライブ

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効率に抗う物語―「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」を観て その3

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煉獄さんについて(『鬼滅の刃』について、かもしれない)ずっと書こうと思っていたことがある。それは、初めて「無限列車編」を観たときに衝撃と言っていいほど揺さぶられ、その後も観るたびに強く感じること。

 

物語のほぼラスト。猗窩座と死闘を繰り広げた挙げ句、左目をつぶされ、あばら骨を折られ、内臓を傷つけられ、血を吐き荒い息をつく姿に、誰もがもう煉獄杏寿郎はお終いだと思うその場面。ここで彼はなおも心を奮い立たせ、こう言う。「俺は、俺の責務を全うする!ここにいる者は誰も死なせない!」と。

 

「誰も死なせない」。ハッとする。誰も死なせない、という決意。誰も、だ。

 

私たちは今、逃れようもなく「効率」至上の中で生きている。それはもうほとんど内面化されていて、効率を考えて行動することが道理にかなっていると感じ、効率化が世の中を良くすると信じ、効率の悪いものを憎んでさえいる。少しでも効率をよくできる部分はないかと生活を点検して、無駄を見つけると徹底的に効率化し、物事を効率的に進められる人物が尊敬される。

 

でも。「誰も死なせない」は、効率とは正反対の場所にある言葉だ。

 

今、組織のリーダーが「誰も見捨てない」と言ったら、もしかしたら無能の烙印を押されるかもしれない。つねに「効率」に追い立てられる社会では「効率の悪い部分を切り捨てる」ことこそが賞賛され、それが物だけじゃなく人に向かうことさえ当然だと誰もが思いつつあるから。極端な話だけれど、切迫した場面で「誰も死なせない」と言い放つリーダーよりも、「死んでも仕方のない人から死なせよう」と命の計算を始める人のほうが「現実的」で「優秀だ」と思う人が多い世の中かもしれないとも感じる。

 

しかし煉獄さんは「誰も死なせない」と決意する。そして自らが命を落としてでも、一般の乗客たちを守り抜く。そして炭治郎に「俺がここで死ぬことは気にするな。柱ならば後輩の盾となるのは当然だ」と言い置いて死んでいく。

 

「効率至上」の考え方に従って客観的に言えば、煉獄さんは最も死んではいけない人だ。柱ひとりの命と、名もない一般の乗客の命を仮に秤にかけたら、乗客何人を片方に載せても、煉獄さんひとりのほうが「役立つ」し、重いかもしれない。でも煉獄さんは、人の命どうしを秤にかけるようなことはしない。ただ誰も死なせないことだけを心において、自らの命を賭けて二百人の乗客を守る。それが自分の責務だから。

 

もっと言えば、炭治郎も、「誰も死なせたくない」と言うのだ。自分の腹を刺した運転士を、列車が脱線したときに、死なせたくない、守りたい、と願う。(この場面ではむしろ伊之助のほうがある意味「常識的」で、「そんなクソ野郎ほっとけ」「お前の腹刺した奴だろうが!」「ほっとけば死ぬ」と炭治郎に進言する。)

 

私が初めて「無限列車編」を観たときにハッとしたのは、煉獄さんと炭治郎のこの「誰も死なせない」という言葉にだ。正確に言うと、ふたりが「誰も死なせない、死なせたくない」とはっきり言いきることが、こんなにも自分の中で鮮烈に響くのだということにハッとした。こんなこと言ってしまうんだ!と、まるで非常識な言葉を聞いたかのような驚きを感じたから。私もいつのまにか十分、「効率」という思想に組み込まれていたんだなと気づく。

 

それにしても。現実世界で今みんなが疑いなく信じ込んでいるほど、ほんとうに「効率」がまっすぐな勝ちへの道筋なんだろうかということは、ときどき疑問に思ったほうが健全かなとも思う。これについては、私が何度も何度も読んで生き方の支えにしているといってもいいぐらい大好きな文章、内田樹さんの「『七人の侍』の組織論」という論考が示唆に富む。(今あらためて読んだらやっぱりワクワクしすぎて思考があふれて止まらないのでここでは突っ込んで言及しないけれど。)

 

煉獄さんの「ここにいる者は誰も死なせない!」は、荒唐無稽な放言、実現不可能な理想論のように見えるけれど、弱い者も小さい者も一人の例外もなく救うという強い意志だけが、結局のところひとつでも多くの命を助けることにつながる唯一の道なのではないだろうか。「助かる命だけ助けよう」という一見「効率的な」思想は、最大限の知恵を絞ることも最大限の力を尽くすことも投げている時点で、すでに脆弱さをはらんでいるのではないか。

 

実際、(原作を未読なので漫画の中でどのように描かれているかはわからないけれど)煉獄さんは、「ここにいる者は誰も死なせない!」と猗窩座に向かって宣言したあと、『一瞬で多くの面積を根こそぎえぐり切る』奥義、玖ノ型・煉獄をふるって猗窩座に挑んでいく。たぶん煉獄さんの中では、二百人のすべてを助けるためにはどうすればいいかという冷静な思考と戦法の取捨選択が極限まで繰り広げられていたのだと思う。自分の体力と技の限界値、猗窩座に与えることのできる傷の深さ広さと再生にかかる時間、夜明けが近づいていること、すべて考えに入れたうえで選んだのがあの技だったのだと思う。そして煉獄さんは猗窩座と相討ちになり、炭治郎の言うように、「負けなかった」。

 

煉獄さんが、絶体絶命の場面でも人の命に順序などつけることなく全員を助けることを当たり前に選んだのは、「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務」という母上の遺した言葉を、自分の使命として生きていたからだろう。先の長くない母が幼い杏寿郎に「あとは頼みます」と託すのだけれど、それは「私のいない家を」「残された家族を」という意味を超えて、母と杏寿郎のあいだでは「この世界まるごとを」という意味だったのだと思えたし、煉獄さんは実際、すべてを守ろうとした。たとえ、それが一般的には「そんなことムリに決まってるじゃん」と鼻で笑われそうな、効率の悪い闘い方だとしても。

 

もちろん、架空の物語と現実世界を比べて、どちらがいいとか悪いとか素晴らしいとか罪だとかいう話をするつもりはない。ただ、「効率」にひたすらひれ伏してしまいつつあるこの世界のカウンターとして、煉獄杏寿郎という人の生き方、『鬼滅の刃』という物語を、私たちが持っておくことの意味は小さくないんじゃないかと思ったりしている。

 

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柱の中でもひときわ能力が高く、まわりからの信頼も厚かったであろう煉獄さんが、二百人の一般大衆の命を守るために死んでしまう。人の能力を数値化して優劣をつけることを当然と思う人だったら、優秀な人物がこんな死に方をすることを無駄死にだと感じるかもしれない。

 

しかし煉獄さんは、死に際しても、「柱ならば後輩の盾となるのは当然だ」とさらっと言ってのけ、そこに後悔はまったくしていない。最後に炭治郎たちに向ける笑顔はやさしく穏やかだ。観ている私たちのほうが逆に動揺してしまうほどに。

 

それは煉獄さんが、竈門少年を、猪頭少年を、黄色い少年を、そして竈門妹を、「信じる」ことができたからだろう。彼らの、まだ荒削りだとはしても命を賭けた闘いぶりに、未来を託すことができたからだろう。炭治郎がボロボロ泣きながら渾身の力を振り絞って猗窩座に投げつけた「煉獄さんは負けてない!」の言葉に、自分の生き方を、自分の大切にしてきた思いを、次の世代に確かに伝えることができたという安堵と誇りを感じることができたからだろう。自分の思いが炭治郎たちの中で生きるのであれば、肉体は死んでもその死は無駄にならない。

 

世代から世代へと思いをつないでいくことは、手の届かない遠い理想を現実にしていくための最後の手立てだ。目に見えない未来を信じて大切なものを託す。効率が悪いことかもしれないけれど、その成就を自分は目にできないかもしれないけれど、長い闘いはきっと実を結ぶだろう。

 

「俺は信じる。君たちを信じる」

安心してそう言い置いていける相手が、煉獄さんの最期、そばにいたことを心からよかったと思う。

 

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