月夜のドライブ

ラブレターバンバン書いて紙飛行機にして 宛てもなく空に飛ばすブログです。▶プロフィールの「このブログについて」をクリックで記事一覧などに飛べます。

ケムリ研究室『砂の女』 @ シアタートラム

ケラリーノ・サンドロヴィッチさんと緒川たまきさんのユニット、ケムリ研究室の2作目。安部公房の「砂の女」を、実は私は原作の小説にも映画にも触れたことがなく、まったく知らない状態での観劇。本当は知ってから観たほうがより楽しめたのかもしれないけれど、まあそれはそれ。

 

私が足を運んだのは8月26日(木)の昼回。シアタートラムに入った瞬間、こんなに狭かったっけ?と。前にここでお芝居を観たのは、5年も前、やはりKERAさんの『キネマと恋人』の初演時だったみたいだ。こんな小さな劇場で間近でKERAさんの作品を観られるなんて、たいへんな贅沢。

 

砂の女シアタートラム.jpg

ケムリ研究室 no.2 『砂の女

原作:安部公房
上演台本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
音楽・演奏:上野洋子
振付:小野寺修二

出演:
緒川たまき
仲村トオル

オクイシュージ
武谷公雄
吉増裕士
廣川三憲

【東京公演】
2021年8月22日~9月5日 シアタートラム
【兵庫公演】
2021年9月9日~9月10日 兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール

 

なんというか、日常に差し込まれた「異物」のような舞台だった。例えばケムリ研究室の前作『ベイジルタウンの女神』が、観終わって「いいもの観たなあ」と記憶の引き出しに仕舞って何度も思い返すような多幸感あふれる舞台だったのに比べて、この『砂の女』は、呑み込みづらくいつまでもざらざらと喉に引っかかっているような異物感があって。心地よさよりもショックのほうが大きい。怖くて怖くて、夢に見てうなされそう。でも、そうだ、芝居ってこういういかがわしいものだった、と思い出させられもした。

 

『ベイジルタウン』と同じ主人公カップルなのに、可愛らしい緒川たまき・ナイスガイの仲村トオル、でないのが、俳優としては当たり前なのかもしれないけれど、心底びっくりした。これまでKERAさんの舞台で幾度となく見た緒川さんの可愛らしくユーモラスで都会的な印象はここにはなく、いるのは田舎臭く無神経で旧弊に閉じこもった、どこか嫌な感じの「女」。そしてやはりKERAさんの舞台でいつも色気とユーモアを併せ持つ好漢として描かれる仲村トオルさんも、ここでは、昆虫を一途に追う真面目さは感じさせるものの、独善的でとりたててこれといった魅力のないただの「男」なのだった。「第一印象は」。

 

舞台全体も、色味のない布と真ん中にしつらえられたみすぼらしいあばら家だけの、とても地味な世界。豪華なセットも目を奪うカラフルな衣装もない。KERAさんの舞台ではおなじみの名うての映像アーティスト上田大樹さんによって、布にひたすら「砂」が投影される。手を変え品を変え、これでもかと運びこまれる、流れる、吹き込む、渦を巻く、積みあがる、砂、砂、砂…。そして、女と男が延々と動かすスコップの、砂を掻き出す音、音、音…。役者の演技によって、美術・映像・照明・音響・音楽が一体となった仕事によって、女と男とこの家の、どんどん行き場のなくなる息苦しさがリアルに迫り、喉に異物を詰められたようになる。

 

しかし本当に怖かったのはそこからで、色のないざらざらした極限の世界に閉じ込められているうち、「女」の肉体はとても妖しく美しく見え、「男」の肉体もまた直截に雄々しく在り、その魅力にどうにも抗えなくなってくることだった。観客の私たちも、物語の中の男や女と同じように。日常に開いた落とし穴だと思っていた場所に居心地のよさを感じ始めるのは、少しずつ気が狂うようで本当に怖い。男は最初、異世界から逃げていたのだったのに、最後は逆に、日常と化し自分と一体化した心地よさから、自分の心を切り離してなんとか逃げようとしなくてはならなくなる。男が女に体と心を捕らえられてしまっていることがわかった、あの砂絵の映像の仕掛けに、ほんとうに背筋がゾッとした。

 

上野洋子さんの音楽が素晴らしかった。上野さんは役者が出てくる前から舞台の一角にいて、その場で(録音された音も駆使しつつ)生の楽器演奏やボイスパフォーマンスを当てていくのだけれど、それは劇伴というよりは、舞台に参加するひとりの演者のようだった。台詞ではなく肉体が奏でる「音」で、緒川さんや仲村さんの肉体に対峙していた。それぐらいの、圧倒的な存在感があった。

 

また、砂子や村人となり砂の世界の内側で、また巡査や教師役となりその外側で、舞台全体を底支えする男四人衆(オクイシュージ、武谷公雄、吉増裕士、廣川三憲)の腕のよさが半端なかった。脇役の厚みと深みにつくづく唸らされるのはKERAさんの舞台の醍醐味(むしろここがいちばんの楽しみと言っていいぐらい)だけれど、全体の人数が少ないぶんいっそうその力量が際立っていた。パンフを読むと、実際この4人の舞台裏はひたすら「人手が足りない」「着替えの時間がない」という大車輪状態だったようだけれど、それをみじんも感じさせず、まさに流れる砂のように姿形を変えて舞台の隅々をおじさん4人で埋め尽くしていた。私のような「砂の女」ビギナーからすると、彼らが繰り広げる少しほっとする笑いの部分で物語に取っかかりやすかったのもありがたかった。

 

それにしてもおそるべしKERAさん。ケムリ研究室の旗揚げ公演『ベイジルタウンの女神』で大賞賛を得た、得意技ともいうべき表現方法(チャーミングな登場人物であるとか、小粋なセリフ回しであるとか、ユーモアとウィットに富んだストーリーであるとか)をすべて封印せざるを得ないような作品を選んで、なおこれほど驚きに満ちた舞台にしてしまうとは。こんなにも得意技を抑制するの、ふつう怖くてできないと思うけれど。

 

正直、単純に好みの問題で、KERAさんの数々の作品の中であれば今回の『砂の女』よりも好きな作品がたくさんあるけれど、だからこそ普段偏ったものしか食べない私のような観客にまで「KERA作品である」という理由で今回のような手ざわりの作品が届いたのは、すばらしくありがたいことだ。事実、いつまでも引っかかっていて、この異物を呑み込みきることができないでいる。

 

いずれ小説も読んでみよう。映画も観てみよう。KERAさんの舞台を先に観た自分がどう感じるか楽しみ。

 

最後にひとつ。原作や映画でどのように描写されているのかわからないけれど、小道具として登場する「ラジオ」の描き方はとってもKERAさんらしいと思った。KERAさんにとってラジオは、ほのかな希望であり鬱屈した世界からの出口なんだと思う。それは、都下のどん詰まりの田舎でやや鬱屈気味の青春を送っていた私にとっての実感とも重なる。KERAさんの描くラジオ、素敵で大好きだ。

 

あともうひとつ。驚きの安価で申し訳ないぐらいの、クオリティ高いパンフ。冒頭のKERAさんと緒川さんのインタビューページのちょっとした字組の遊びが、底なしの砂の穴に落ちるような感覚があり芝居が終わってもとても怖いのであった…。

 

 

最後のカーテンコールで姿を見せてくれた緒川たまきさんの、感極まったような表情もとても心に残った舞台だった。あいかわらず(どころか政治の無策のせいでますます混迷する)コロナ禍のもとで、困難をおしてすばらしい公演を打ってくださった、KERAさん、緒川さん、役者・スタッフのみなさん、ありがとうございました!

 

砂の女flyer.jpg